ミュンヘン滞在記のとりあえずの最終編は、ちょっとしたエピソードを紹介したいと思います。それは、子連れで市内のデパートの最上階にあるビュッフェ形式のレストランで昼食をとっていたときのこと。隣の席で食事中の70代か80代と見える女性が私たちに声を掛けてきました。前々回でも書きましたが、私はドイツ語の読み書き会話はほとんどできません。英語は日常会話程度ならできますが、ご年配の女性に英語を話して頂くことを期待できない状況でした。初めは「もう食事が済んだので、こっちの角の席の方が良いだろうから移ったらいかが?」と仰っているのかしら、と思って、その方の素振りを観察していました。手にはコップ、お買い物袋や鞄は椅子に置かれたまま、荷物に視線を移したり、レジの方を見て指差したりしながら、飲む仕草をして立っておられます。ようやく「水を買ってくるので鞄を見ていてちょうだい」と仰っておられることがわかりました。私はうなずいて、見るというジェスチャーを女性の手荷物に送り、「わかりました。荷物を見てますから」と伝えると、女性は微笑んで席を立ちました。
ほどなくして女性がミネラルウォーターの瓶とコップを手に戻って来られ、「ダンケ(ありがとう)」といいながら、また微笑みました。ダンケは、数少ない私に理解できるドイツ語の一つです。私も微笑み返し、息子の食事の世話に戻りました。
しばらくして、女性は水を飲み終えたようで、3つある手荷物を一つずつ肩にかけ始めました。何となく隣の席からその様子を見ていましたが、女性はこちらを見ていません。視線が合わないまま、女性が席を立ったその後ろには、何と、貴重品が入っているかと思われる上品な黒い手提げバックが残っていました。女性は食事を終えたプレートを最後に抱えることに集中していて、残されたバックには気づきません。
慌てて私は手を振ったり、「エクスキューズミー(英語でちょっとすみません)」と叫んでみたりもしたのですが、女性は気づかず、食器がのったプレートを手に、返却コーナーに足早に向かって行ってしまいました。 回りの食事客を見回してみても、誰もこの事態には気づいてくれません。私はとっさに席を立ち、息子を米俵のように脇に抱え、荷物を肩に掛け、ベビーカーを押し、女性の黒いバックをベビーカーに乗せると、その時出せる力を最大限出して全速力で走りました。女性の背中が見えなくなっていった方向を目がけて。
レストランの入り口を過ぎ、下りエスカレータのあるホールまで走りましたが、女性の姿は見当たりません。足を止めて数秒、呼吸を整えます。すると視線の先から、女性が血相を変えて大急ぎで戻ってくる姿が見えました。私は女性に手をぶんぶん振って、ベビーカーの上の黒い鞄を指差しました。
女性は私を見つけ、バックを見つけ、そうしてやっと、女性の血の気の引いた強張った表情が一気に微笑みに変わっていったのでした。女性は感嘆の声を上げ、勢い良く話し始めます。「そこの角まで行って気がついて、本当に慌てて戻って来たのよ。びっくりしたわ。でも良かった。本当にありがとう。ありがとう。」女性の表情と身振り手振りから推測すると、多分こんなことを言っていたんだろうと思います。私は胸をなで下ろす仕草で答え、子どもを抱えていない方の手で女性の肩を抱き、私たちは互いの腕を抱えながら、喜びを伝え合ったのでした。
言葉のわからない外国で、こんな四コマ漫画ができそうなストーリーを同じ女性と共有できたことに、いたく感動してしまい、この出来事はドイツ滞在中の思い出の中でも、私に強烈な印象を残しました。自分が子育てを経験中のことが役に立ったのかどうかはわかりませんが、普通のおばちゃん並みのコミュニケーション能力がようやく備わったというすばらしい称号を、ドイツの女性から頂いた気が致します。この能力、コミュニケーション問題を解決するための今後の技術開発に、いつか活かせたら…と願うばかりです。