今日は身体知研究会という会に参加してきました。私の専門領域はSign Language Phoneticsという日本に存在しない学問分野でもあるのですが、「手話には日本語とは違うリズムがある」という極めて哲学的な聾者の声から、哲学と情報科学を経てこの分野に入りました。日本語でいうと、手話音声学、という何のことやらさっぱり伝わらない訳になってしまうので、あまり自分の専門分野について広く読まれる形で書いたことはないのですが、今日は改めて努めてみます。 今回の研究会のテーマは、ずばり「リズム」で、久しぶりに発表と議論に参加しました。舞踏、音楽、スポーツ、リハビリという多方面の分野からの発表で、「リズム」という語のもつ意味の多義性に大変驚きまし た。腕の筋電図や脳機能画像を用いて各分野の「リズム」の謎に科学的に迫るという壮大な企画の研究会でした。そこで私も手話分野から参加して、大変有意義な時間を過ごしました。
ただ、最後の全体討論で、ひとつ苦い思い出がよみがえりました。各方面の専門家の指す「リズム」が、あまりにも多様な意味をもつ気がして、それらの違いや共通点を包含するマップがないかとお尋ねしたところ、どうやら存在しないようなのです。うなだれていると、最後に一人の学生さんに話かけられ、1960年代のクラーゲスという哲学者が「リズム」を定義して以降、定義の話は進んでいないと教えてもらいました。この一連の議論が苦い思い出に直結したのです。
先述のように、私は「日本手話にはリズムがある」という聾者の声から、新しい学問分野に入りました。 最初に読んだのが、クラーゲス(『リズムの本質』杉浦実訳、みすず書房)だったのです。クラーゲスは「リズムは規則の時間的現象である」と述べ、現象学の手法でリズムの本質に迫りました。最初のゼミでクラーゲスについて発表したのをいまでもよく覚えていますが、工学の先生方からの反応はいまいちでした。ここから、日本手話のリズムの指す真の意味に到達するのに、日米を往復すること数回、哲学、情報科学、手話言語学と学問分野を横断して、最終的に6年の時間を費やしたのです。それくらい、「リズム」は魅力的でもあり、また対応する事象をつかむのが大変難しい言葉なのです。「リズム」をテーマに工学の指導教官の元に研究を開始した私にとって、これは大変な修行でした。
6年を費やし、色々な方々の手助けを受けてようやく分かったのですが、手話の場合は、聾者の感じるリズムとは、言語としての統語情報と大きく関わっています。手話は、主に腕と指先と表情を使って、タイミングや ポーズやアクセントといった韻律情報を伴い、発話されます。その規則性を共有する集団に属する人々にとって、リズムとは韻律の規則性であり、意味を伝えるために不可欠なものす。ここが音楽やスポーツの分野でいわれるリズムとは大きく異なるところです。もちろん、周期性という大枠の意味では共通するのですが、他に共通する点を見つけるのは困難で、それは本当に「哲学的」ですらあります。
分野横断的に、習得のしやすさ、幼児期からの運動能力や脳機能の発達、熟練者と初学者の違いを研究することで、それぞれのリズムが指す何らかの共通性がわかるかもしれませんが、バイオメカニクスや人工知能といった研究分野では、まだその統合までは至っていないのが現状なのです。
そこで、私のささやかな経験から、これから「リズム」をテーマにこれらの分野に参入する若い理工系研究者にぜひ伝えたいことがあります。「リズム」は魅力的な言葉ですが、科学的に扱うには極めて漠然とした言葉です。客観的事象なのか、心理的事象なのか、それらの関連も未 解明なのです。研究者が色々な装置を使って測定しているのがリズムなのか、リズム的な何かなのか、リズム感なのか、まったく不明なのです。私の提案はこうです。「できることなら、リズムという言葉を一回、忘れてしまいましょう。」
その意図するところは、日常言語の「リズム」の指す極めて分野依存的で限定的な意味が、最後の最後で明らかになるまでは、「リズム」は心の中に大事にしまっておいてもらいたい、ということです。
「手話のリズム」という迷宮から帰還したばかりのマイナーな分野の一人の研究愛好家として、「リズム」を研究対象に選ぶ若い理工系学生さん達に、声を大にしてお伝えしたい。リズムを忘れましょう。逆に、若い哲学研究者の皆さん、リズムを何とか解明して下さい。データは各方面で沢山ありますので!